瓦ジスタこと藤田隆志です。香川県三豊市で生まれました。ずっと屋根屋をやってきて瓦を守っていこうって活動してきましたが、そのためにも守らなければいけないものは風景と思い出なんだといつしか想うようになりました。日本の良き風景を守る活動とより良き思い出づくり。そんなモノとココロを提供します。

瓦ジスタヒストリー

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津嶋神社で有名な?香川県三豊市三野町大見久保谷自治会で生まれる。
画像からでも分かるように相当大きな耳と額。小さい頃からこの二つを武器におじさん
おばさんに愛想を振りまいていたようだ。1番小さい時の記憶は、ある喫茶店で溝に落ち
てしまったこと。今でも、両親が慌てながら手を差し伸べてくれていた光景が目に焼きつ
いている。
超ド田舎(今でもドコモ以外、家の中は圏外)ですくすくと育ててもらった。そして小学校
に入学。この頃はみんなとよく遊んだ。僕の小学校で流行っていたのはドッジボール。
休みの時間の度に外へ出て遊んでいた。
超長いよ。俺の自己紹介。
この頃に強烈にはまっていたものがある。
それは

 

img1

そう、キン肉マン!
この頃は本当にはまっていた。特にこのキン肉マン消しゴム、略して【キン消し】。これを
買ってくれるまで、ショーケースから動かないという子どもながらの最高の戦略で両親を
困らせながらも数を増やしていった。この頃の思いは強く、もう40歳というのに、
週間少年ジャンプを今も欠かさず買い続けている。
たくさん遊んだ。でも小学校の頃は勉強も頑張った。それはある先生が担任になってく
れたからだと思う。
横山先生。小学5年、6年と2年連続で担任をしてくれた。本当に厳しい先生だった。
テストで80点取らないとお仕置きがあった。でもそのテスト勉強をしっかりした証
(自主勉強10P以上)があればお仕置きはないという逃げ道も用意してくれていた。
後に母から聞いた話だが、先生は担任になったその日に保護者にこう話していたらしい。
「私は生徒に手を上げることがあります。しかし、ウチの子には手を出してほしくないとい
う方がいれば、今おっしゃっていてください。その場合は絶対に手を出しません。」
当時の保護者たちは、手を上げる!?どうぞお願いしますという感じで先生を信頼し、
任せていたようだ。
この先生は、他にも近所の山に行って一緒に昆虫を採ってくれたり水泳大会などになると、
それはそれは大声で声援を送ってくれた。厳しかったけど本当に愛情のある先生だった。
今、うちの子が僕の母校、大見小学校に通っている。この先生のような素晴らしい出会い
が多くあることを僕は望んでいる。

中学時代
三野津中学校に入学。僕の入学した学校は必ず部活をしなければならなかった。
当時からサッカーが好きで、あれば必ず入っていたが、残念ながらなかった。
ということでしかたなくテニス部を選んだのだが、本当に楽しかった。テニス自体も楽し
かったが、やはり友達の存在が大きかった。
その当時のダブルスを組んでいた相方は、今でも深い交流が続き大切な友人の一人と
なっている。
中学時代に先生にメチャ怒られたことがあった。それは
[書道の宿題をサインペンで書いたこと]
今では本当に本当に反省してます。十鳥先生、ごめんなさい。

img2

高校時代
この頃は本当に勉強をしなかった。中学の時は英語だけはずっとトップだったのに・・・
成績は急降下。来る日も来る日もサッカーばかりの毎日だった。念願のサッカーが出来
るという思いもあってか、本当に部活ばっかりだった。といっても県下でも有数の弱小チ
ーム。それでも楽しかった。
でも、大学にはなんとか合格。
しかし僕はこの大学で人生最大の経験をすることになる。

大学時代
神戸学院経済学科に入学。しかし、どうなりたいとかここで何を勉強するとか一切考え
たことがなく時間はただただ過ぎ去っていった。友人も出来て、これといった不満もなく
いわゆる、普通の大学生活をしていたとき、あの出来事が起こった。
img3
1995年  1月17日  阪神大震災
そのときの僕は早朝にも関わらず、なぜか起きていた。当時のようすを語るときには僕
はいつもこう言う。
「地震とは全然思わなかった。戦争が起こって爆撃をされたのかと本気で思ったんや。」
揺れがおさまった後はすぐに実家に連絡した。震源地がどこか分からなかったので、
もしや香川県!と思ったからだ。
すぐに連絡がついて両親たちの無事を確認。その後テレビも見ることが出来たので、そ
のすさまじい状況を把握することになった。友人全員の無事を確認することが出来たが
その中には仮設住宅暮らしを余儀なくされた人もいた。
大学も3~4ヶ月の休校が決まった。その頃には、実家に帰り、近所の料理屋でバイトし
ていた。
バイト中や復学してからいろんなことを考えた。
楽しく大学に通っているが目標がない・・・。
何をしていいか分からない・・・。
このままでいいのだろうか?
こんなことを考えながら大学生活に疑問を感じ震災から半年後、僕は実家に帰ることに
決めた。それが今から21年前の話だ。

img4

ここで初めて仕事をすることになる。
【有限会社 藤安瓦】  親父が創業の屋根瓦施工会社だ。
屋根屋の跡取りということでまず技術の向上に努めた。
それなりに技術、知識もついた。今でもそう簡単に他の職人には負けない。
職人としての仕事はそれなりに面白く、辞めようと思ったことは当時はなかった。
結構細かいとこもあるので、技術を要するこの職人という仕事は楽しかった。
しかし、あることは非常に苦手だった。
それが、営業。
僕は人と話をするのが本当に苦手でした。だから営業するのは本当にダメだった。
営業のいない会社。職人のみの完全施行請負の会社だった。親父はある屋根屋さんの
営業あがり。営業だけでは食っていけないと独立を決意したそう。その当時の営業力で、
独立してからは営業せずに頑張ってこれていた。時代の好景気もあり、営業しなくても
仕事が来る、という図式が成り立っていたのだ。
しかし、当然だが時代と共に仕事は減ってく。営業しないのだから・・・

景気の後退とともに、いつしか仕事がほとんどなくなりました。
仕事がなくなったにもかかわらず、僕は営業する勇気がなかった。むしろ、もうこの仕事
はやめて、次の仕事を探そう。そう本気で思っていた。
しかし、ある瓦メーカーとの出会いが、僕を変えました。
その出会いは僕の頭の中と行動を180°変えました。

どうせ潰れるなら、この男と一緒に潰れてやろう。
そんな気持ちで頑張った。
絶対にやりたくない営業も頑張った。
普通の営業は自分は出来なかったから、とにかく人と違うことをしようと思った。
そして、それがうまくいき、過去最高利益をあげるまでに時間はかからなかった。
想いが変われば、すべてが変わる。
そんなことを実感したのはこのときだ。
この頃に参加したのが、中小企業家同友会という経営者の団体。ここでの活動は、ボク
の行動力をさらにあげてくれた。想いを変えてくれたのが瓦の営業マンなら、その想い
をさらに行動に移すことの大切さを教えてくれたのはこの同友会だった。
img5
名のある経営者たちの前でも自分を表現出来るようになった。今までは絶対に嫌だった
営業も好きになり、人と話をするのも好きになった。
この頃から僕は少し大きな目を持つようになった。屋根職人をしていると、当然屋根の
上に登る。そこから見える景色がすごいキレイな場所があった。しかし同時に、朽ちて
いく住宅、もう使われなくなってしまった建物も見ることが出来た。
・・・これはなんとかせないかんのと違うんか・・・?

生まれた故郷を守っていきたい。
最初は本当に小さな想いだった。でもだんだんとこの想いが大きくなった。このまちの
いいところを守っていかないかんのと違うか?景観もそう、この地にしかない価値がある
はずなのに、それが失われていっている。それでいいのだろうか?そして自分たちの子
どものためにも、このまちを魅力的にする必要があるんじゃないか?綺麗ゴトのように聞
こえるかもしれないが、心底そう思った。
瓦は最も人々を幸せにする屋根素材。でもそれ以上に・・・
もっとこのまちの人たちに貢献出来ないだろうか?
もっとこのまちを良く出来ないだろうか?
そこで出した結論が、不動産業という選択だった。町を守り、町を創る。本当に素晴らし
い職業だと思った。でも、実際に開業なんて出来るのだろうか?今の仕事もある中で、こ
んなことを始めるのは無理なんじゃないか・・・。

でも、やった。
後先考えずに創業した。

不動産開業のためにはまずは、宅地建物取引主任者という資格を取らなければならない。
しかし、この資格は合格率が15%前後。そう簡単に受かる資格ではない。しかも試験ま
ではあと3ヶ月を切っていた。講座や学校もあったが、そんなモノを利用する時間も余裕
もなかった。でも結論は簡単だった。
朝4時に起きたら、2時間は勉強出来る。
夜は子供たちとの時間を大切にしたかったので、仕事が終わり、家に帰れば一切勉強しな
かった。その分朝早く起きれば誰にも迷惑はかからず勉強出来る。
これを3ヶ月続けた。
で、なんとか合格。ホントにギリギリで、あと1点足らなければ不合格だった・・・。

なんとか開業することが出来た。しかし本当に開業しただけ。そう簡単に仕事なんてくる
はずがない。チラシを配ったり、HPを作ったりして頑張っていたが、まったく集客できず。
くじけそうになった。でも、なんとか頑張った。すると、すこしずつ、依頼をしてくれる方が
出てきた。めっちゃうれしかった。
でも、不動産仲介業っていうのは成功報酬。だから依頼はあっても、ちゃんと契約に結び
つかなければ報酬はいただけない。なかなかうまくいかなかった。最初の報酬がいただけ
るまで、実に3ヶ月。このときは最高にうれしかった!
そして今、屋根屋と不動産という仕事の経験を活かし、もっと幅広く人々に貢献したいと考
えている。
それは、風景をつくり、思い出をつくること。
ノスタルジーをみんなと一緒に創ること。
瓦を通して、風景の大切さを伝えたい。
想いが変われば行動が変わることを伝えたい。
ボクはこれからそのチャレンジをしていく。
それがやりたいことであり、好きなことであり、伝えたいこと。
あなたにも、その想いが伝わりますように。

津嶋神社で有名な?香川県三豊市三野町大見久保谷自治会で生まれる。
画像からでも分かるように相当大きな耳と額。小さい頃からこの二つを武器におじさん
おばさんに愛想を振りまいていたようだ。1番小さい時の記憶は、ある喫茶店で溝に落ち
てしまったこと。今でも、両親が慌てながら手を差し伸べてくれていた光景が目に焼きつ
いている。
超ド田舎(今でもドコモ以外、家の中は圏外)ですくすくと育ててもらった。そして小学校
に入学。この頃はみんなとよく遊んだ。僕の小学校で流行っていたのはドッジボール。
休みの時間の度に外へ出て遊んでいた。
超長いよ。俺の自己紹介。
この頃に強烈にはまっていたものがある。
それは

 

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そう、キン肉マン!
この頃は本当にはまっていた。特にこのキン肉マン消しゴム、略して【キン消し】。これを
買ってくれるまで、ショーケースから動かないという子どもながらの最高の戦略で両親を
困らせながらも数を増やしていった。この頃の思いは強く、もう40歳というのに、
週間少年ジャンプを今も欠かさず買い続けている。
たくさん遊んだ。でも小学校の頃は勉強も頑張った。それはある先生が担任になってく
れたからだと思う。
横山先生。小学5年、6年と2年連続で担任をしてくれた。本当に厳しい先生だった。
テストで80点取らないとお仕置きがあった。でもそのテスト勉強をしっかりした証
(自主勉強10P以上)があればお仕置きはないという逃げ道も用意してくれていた。
後に母から聞いた話だが、先生は担任になったその日に保護者にこう話していたらしい。
「私は生徒に手を上げることがあります。しかし、ウチの子には手を出してほしくないとい
う方がいれば、今おっしゃっていてください。その場合は絶対に手を出しません。」
当時の保護者たちは、手を上げる!?どうぞお願いしますという感じで先生を信頼し、
任せていたようだ。
この先生は、他にも近所の山に行って一緒に昆虫を採ってくれたり水泳大会などになると、
それはそれは大声で声援を送ってくれた。厳しかったけど本当に愛情のある先生だった。
今、うちの子が僕の母校、大見小学校に通っている。この先生のような素晴らしい出会い
が多くあることを僕は望んでいる。

中学時代
三野津中学校に入学。僕の入学した学校は必ず部活をしなければならなかった。
当時からサッカーが好きで、あれば必ず入っていたが、残念ながらなかった。
ということでしかたなくテニス部を選んだのだが、本当に楽しかった。テニス自体も楽し
かったが、やはり友達の存在が大きかった。
その当時のダブルスを組んでいた相方は、今でも深い交流が続き大切な友人の一人と
なっている。
中学時代に先生にメチャ怒られたことがあった。それは
[書道の宿題をサインペンで書いたこと]
今では本当に本当に反省してます。十鳥先生、ごめんなさい。

img2

高校時代
この頃は本当に勉強をしなかった。中学の時は英語だけはずっとトップだったのに・・・
成績は急降下。来る日も来る日もサッカーばかりの毎日だった。念願のサッカーが出来
るという思いもあってか、本当に部活ばっかりだった。といっても県下でも有数の弱小チ
ーム。それでも楽しかった。
でも、大学にはなんとか合格。
しかし僕はこの大学で人生最大の経験をすることになる。

大学時代
神戸学院経済学科に入学。しかし、どうなりたいとかここで何を勉強するとか一切考え
たことがなく時間はただただ過ぎ去っていった。友人も出来て、これといった不満もなく
いわゆる、普通の大学生活をしていたとき、あの出来事が起こった。
img3
1995年  1月17日  阪神大震災
そのときの僕は早朝にも関わらず、なぜか起きていた。当時のようすを語るときには僕
はいつもこう言う。
「地震とは全然思わなかった。戦争が起こって爆撃をされたのかと本気で思ったんや。」
揺れがおさまった後はすぐに実家に連絡した。震源地がどこか分からなかったので、
もしや香川県!と思ったからだ。
すぐに連絡がついて両親たちの無事を確認。その後テレビも見ることが出来たので、そ
のすさまじい状況を把握することになった。友人全員の無事を確認することが出来たが
その中には仮設住宅暮らしを余儀なくされた人もいた。
大学も3~4ヶ月の休校が決まった。その頃には、実家に帰り、近所の料理屋でバイトし
ていた。
バイト中や復学してからいろんなことを考えた。
楽しく大学に通っているが目標がない・・・。
何をしていいか分からない・・・。
このままでいいのだろうか?
こんなことを考えながら大学生活に疑問を感じ震災から半年後、僕は実家に帰ることに
決めた。それが今から21年前の話だ。

img4

ここで初めて仕事をすることになる。
【有限会社 藤安瓦】  親父が創業の屋根瓦施工会社だ。
屋根屋の跡取りということでまず技術の向上に努めた。
それなりに技術、知識もついた。今でもそう簡単に他の職人には負けない。
職人としての仕事はそれなりに面白く、辞めようと思ったことは当時はなかった。
結構細かいとこもあるので、技術を要するこの職人という仕事は楽しかった。
しかし、あることは非常に苦手だった。
それが、営業。
僕は人と話をするのが本当に苦手でした。だから営業するのは本当にダメだった。
営業のいない会社。職人のみの完全施行請負の会社だった。親父はある屋根屋さんの
営業あがり。営業だけでは食っていけないと独立を決意したそう。その当時の営業力で、
独立してからは営業せずに頑張ってこれていた。時代の好景気もあり、営業しなくても
仕事が来る、という図式が成り立っていたのだ。
しかし、当然だが時代と共に仕事は減ってく。営業しないのだから・・・

景気の後退とともに、いつしか仕事がほとんどなくなりました。
仕事がなくなったにもかかわらず、僕は営業する勇気がなかった。むしろ、もうこの仕事
はやめて、次の仕事を探そう。そう本気で思っていた。
しかし、ある瓦メーカーとの出会いが、僕を変えました。
その出会いは僕の頭の中と行動を180°変えました。

どうせ潰れるなら、この男と一緒に潰れてやろう。
そんな気持ちで頑張った。
絶対にやりたくない営業も頑張った。
普通の営業は自分は出来なかったから、とにかく人と違うことをしようと思った。
そして、それがうまくいき、過去最高利益をあげるまでに時間はかからなかった。
想いが変われば、すべてが変わる。
そんなことを実感したのはこのときだ。
この頃に参加したのが、中小企業家同友会という経営者の団体。ここでの活動は、ボク
の行動力をさらにあげてくれた。想いを変えてくれたのが瓦の営業マンなら、その想い
をさらに行動に移すことの大切さを教えてくれたのはこの同友会だった。
img5
名のある経営者たちの前でも自分を表現出来るようになった。今までは絶対に嫌だった
営業も好きになり、人と話をするのも好きになった。
この頃から僕は少し大きな目を持つようになった。屋根職人をしていると、当然屋根の
上に登る。そこから見える景色がすごいキレイな場所があった。しかし同時に、朽ちて
いく住宅、もう使われなくなってしまった建物も見ることが出来た。
・・・これはなんとかせないかんのと違うんか・・・?

生まれた故郷を守っていきたい。
最初は本当に小さな想いだった。でもだんだんとこの想いが大きくなった。このまちの
いいところを守っていかないかんのと違うか?景観もそう、この地にしかない価値がある
はずなのに、それが失われていっている。それでいいのだろうか?そして自分たちの子
どものためにも、このまちを魅力的にする必要があるんじゃないか?綺麗ゴトのように聞
こえるかもしれないが、心底そう思った。
瓦は最も人々を幸せにする屋根素材。でもそれ以上に・・・
もっとこのまちの人たちに貢献出来ないだろうか?
もっとこのまちを良く出来ないだろうか?
そこで出した結論が、不動産業という選択だった。町を守り、町を創る。本当に素晴らし
い職業だと思った。でも、実際に開業なんて出来るのだろうか?今の仕事もある中で、こ
んなことを始めるのは無理なんじゃないか・・・。

でも、やった。
後先考えずに創業した。

不動産開業のためにはまずは、宅地建物取引主任者という資格を取らなければならない。
しかし、この資格は合格率が15%前後。そう簡単に受かる資格ではない。しかも試験ま
ではあと3ヶ月を切っていた。講座や学校もあったが、そんなモノを利用する時間も余裕
もなかった。でも結論は簡単だった。
朝4時に起きたら、2時間は勉強出来る。
夜は子供たちとの時間を大切にしたかったので、仕事が終わり、家に帰れば一切勉強しな
かった。その分朝早く起きれば誰にも迷惑はかからず勉強出来る。
これを3ヶ月続けた。
で、なんとか合格。ホントにギリギリで、あと1点足らなければ不合格だった・・・。

なんとか開業することが出来た。しかし本当に開業しただけ。そう簡単に仕事なんてくる
はずがない。チラシを配ったり、HPを作ったりして頑張っていたが、まったく集客できず。
くじけそうになった。でも、なんとか頑張った。すると、すこしずつ、依頼をしてくれる方が
出てきた。めっちゃうれしかった。
でも、不動産仲介業っていうのは成功報酬。だから依頼はあっても、ちゃんと契約に結び
つかなければ報酬はいただけない。なかなかうまくいかなかった。最初の報酬がいただけ
るまで、実に3ヶ月。このときは最高にうれしかった!
そして今、屋根屋と不動産という仕事の経験を活かし、もっと幅広く人々に貢献したいと考
えている。
それは、風景をつくり、思い出をつくること。
ノスタルジーをみんなと一緒に創ること。
瓦を通して、風景の大切さを伝えたい。
想いが変われば行動が変わることを伝えたい。
ボクはこれからそのチャレンジをしていく。
それがやりたいことであり、好きなことであり、伝えたいこと。
あなたにも、その想いが伝わりますように。

瓦ジスタこと藤田隆志です。香川県三豊市で生まれました。ずっと屋根屋をやってきて瓦を守っていこうって活動してきましたが、そのためにも守らなければいけないものは風景と思い出なんだといつしか想うようになりました。日本の良き風景を守る活動とより良き思い出づくり。そんなモノとココロを提供します。

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