男女は平等ではない、対等なのだ。
何年か前にウクライナかハンガリーかチェコかコロンビアか忘れたけど、その国の政治家がこう発言して物議を醸した。いやいやいやいや、平等でしょ!!!って言う人がわんさかいたのだ。
ボク個人は男女は平等ではないってのはすこぶる共感。体の造りも役割も違うのに平等なんてありえない。そしてこの方がいうとおり、対等だと思ってる。
対等って言葉に言及してちょっとblogを書くことにする。
その前にコロンビアだけちょっと南米だったんで、コロンビアの政治家ではないはず。東欧系の国だった。そのあたりの政治家だ。ちょっとググってくる。しばしお待ちを。
あれま
なんと
トルコの大統領だった。
記憶に嘘をつかれた。
だからボクのせいではない。
まあ挙げた国から近いからいいだろう。
あ、やっぱり謝ります。すいません。
写真の英語を読んでからここからのblogを読んでほしい。そうでないと意味が分からないから。
という冗談もそこそこに本題に入る。読まなくていい。ボクも読めないから。
そういや思い出した。
ボクは中学時代、英語は校内3年間トップでした。常に1番だった。でも高校に入るとなぜか対の位置にいました。また話がそれた。
対等に扱おう。
どんな時でも相手を一個人として接するのがめっちゃ大事。どんなに偉い人であろうと、どんなに小さな子どもであろうと、相手の境遇や立場によって心の態度を変えてはいけない。
ぐへへへへへ〜、お代官様〜〜〜という言葉を聞いたことがあると思う。聞いたことがない人は聞いたことがあることにしてほしい。あれは完全にへりくだって相手に取り入ろうとしている。これは相手を対等に見ずに、相手を上に見ているのだ。
いや、待てよ。この場合はもしかしたら相手を下に見ているのかもしれない。どうせ金積まれたら動くしょーもない人間だろ〜って思ってるかもしれない。
目の前にビルゲイツが現れたとしよう。素晴らしい人格者で、それこそとんでもないオーラを放っているだろう。でも、ここで相手を上に見て自分を下に見るのとは話が違う。たとえ畏敬の念を抱こうとも、彼は同じ人間で、一個人なのだ。
小学3年生が目の前に現れて、割り算を教えてくれて言われたとしよう。ここであなたが割り算が出来るなら、教えてあげることが出来る。でもこれも、小学3年生の子よりも知識と経験あるだけで、人としては同じ一個人。対等なのだ。
対等であることと、尊敬することや丁重に扱うことや教育することは同じではない。対等とは
一人一人は違うと認め、尊重する。
そういうことだ。もちろんそれは自分も尊重するということだ。
老若男女関係なく、能力のあるなし関係なく、まず原則として一人一人は違うと認め、尊重する。その上で、どう接するか、なのだ。
平等に接するとは、どんな人にもタメ口で話をするようなものだ。
でも対等に接するとは、相手の個性をしっかりと認め、その上でどう接するかを決めて接することだ。
もっとも尊い価値は、付加価値ではなく、存在価値。
そしてこの世に一つとして同じものはない。
ならば、その違いを認めて、共存共栄していくのがゴキゲンな人間活動なんだと思う。
無理やりゴキゲンて言葉を使ってやった。
あ、そうだ、こう締めくくろう。
全てを平等に、対等に扱おう。
どんなボクも、対等に扱っておくれ。