あいつに負けた。
次は勝ちたい。
あなたはそう思った。
そこで質問聞いてみたい。
その、次に勝とうとする原動力はどこにあるんだろう?
ボクは考えてみた。
でね、ボクは気付いた。どんな感情を自分の力に変えてもいいと。
それはね、ある男の一言から考えさせられるようなった。
それは、仕事について、その男が聞かれたときだった。
「あなたにとって、仕事とは???」
その質問に、その男はこう答えた。
「怒り」です、と。
悔しいとか、負けたくないと、見返したいとか。そんな気持ちを出せるところが仕事なんだと。
そっか、そんな考え方もあるんだなって思った。ボクの美徳にはないことだったけど、すごく腑に落ちた。
でね、最初の質問。
次に勝とうとする原動力の話。
これは喜怒哀楽で説明出来る。
喜。
次はあいつに勝って喜びたい。その喜びを分かち合いたい。
そんな気持ちはきっとあるはず。
怒。
不甲斐ない。
俺なら出来るはずなのに。
なぜ出来なかった。
悔しい。
次は勝つ。
そのためにはどんな辛いこともいとわない。
そんな、自分自身に対する怒りもあるはず。
哀。
勝てるはずだったのに。
勝った姿をあいつに見せれるはずだったのに。
哀しい。哀しい。
この哀しさは嫌だ。
もう一度挑むんだ。
そんな哀しさもきっとあるはず。
楽。
あいつに負けた。
でも、この勝負に挑む過程は楽しかった。
充実してる。
この過程をもっと楽しみたい。
そして、その先に、勝ちたい。
そんな思いもあるはずなんだ。
たぶんね、こんな気持ちはみんなあるはず。
どの部分が大きいかで、その人の価値観や美徳が変わってくる。
今ね、楽しんでいこう、楽しんでいこうって風潮があると思います。
ボクもそれに賛成ですし、出来ればそんな感じで毎日過ごしたいと思います。
でもね、楽しめない時だってあるじゃないですか。
そんな時は、それでもいいんだっって認めてもいんだと思うんです。
それでいいんだと思う。
もっともっと揺れていいんだと思う。
人は人を救えない。人を救うのは自分だけ。
そんな言葉もありますね。
でも、救いたい。
それでも救って喜びたい
その摂理に抗いたいという怒り
そんな哀しい現実は受け止めない
みんなが人を救いたいってのはむしろ楽しさなんじゃないか?(←おかしい?)
人間は感情を制御出来る唯一の動物です。
でもそのいろんな感情を制御したくても出来ないから、個性があるのだと思います。
無理やり楽しさだけをもとめなくていいんです。
怒りも哀しみも個性です。
楽しさだけを求めていきていくなんてそれは救えない快楽主義者。真理ではないのです。
あなたはあなたらしくて、それがいいんです。
揺れても揺れても、その幹が愛ならいいんだと思います。
でも、愛があるからまた、揺れるのです。
うーん、今日のblogは伝わりにくいかなー…。